私たちのからだの動きに生体内での電気現象が関係しているという発見は、1800年代初期のガルバニによるカエルの実験からである。この生物電気現象の発見に伴う、ガルバニとボルタの論争は有名な話として伝えられ、ガルバニは神経生理学の基礎を、ボルタは電磁気学の基礎を作ったとして現在に名を残している。筋電計や誘発電位計の歴史を述べる時にも、時代をここまでさかのぼらなければならない。
ここでは、神経・筋の研究の始まりと、装置の開発の流れについて述べることにする。
ガルバニの生物電気発見により、神経に電気を流すと筋が収縮することがわかり神経生理学の研究が始まった。当初は収縮する筋肉の状態を記録する方法として、すすを塗った記録紙を回転させて、筋の一端に取り付けたレバーが動くことで、そのすすを削り落とし記録していた。今日、この装置はキモグラフとして医学部の生理学実習では必須の実験装置として使われているが、現在はすすではなくインクペンを用いている。また、神経を刺激するための電気は矩形波のパルス信号が最適であることを、ヘルムホルツらが発見し今日でも神経刺激には短い時間の矩形パルスが用いられている。
その後、1820年にエルステッドが検流計を開発し本格的な電気生理学的研究がスタートした。なお、この検流計はガルバニの発見を記念して、ガルバノメータとも呼ばれている。神経を流れる電気は非常に早く、秒速50から100mに達しこの現象を記録するために、ガルバノメータに小さな鏡を貼り付けて、そこに光を投影し反射した光を写真撮影する方法が考案された。この装置は電磁オシログラフと呼ばれるが、当時の性能ではまだ神経生理学の早い現象の記録には充分とはいえなかった。時を同じくして、ドイツの物理学者ブラウンの陰極線管(ブラウン管)の発明を応用して、ギャッサー、エルランガーらによって1920 年ころオシロスコープが開発され、オシロスコープを用いた神経生理学研究が始まり今日に至っている。

図1:同心型針電極
オシロスコープで早い電気現象が見えるようになり、神経・筋生理学の研究は筋肉から筋線維へと、より細かな研究へと進んでいった。
筋電図の研究は1924年(大正13年)にエイドリアンとブロンクによって同心型針電極が考案されてから一気に加速した。 これは皮下注射針の中に細い金属線を外套と絶縁して封入固定し、先端だけを露出したものである。(図1)

図2:1946年Huddleston&Golsethの筋電計
1930年後半にはオシロスコープを用い、管面を写真撮影する方法が用いられていた。 1942-3年ころには脳波で有名なジャスパーらがモントリオールで筋電計の開発に着手している。
その後、1946年(昭和21年)に米国のハドルストン & ゴルセス が現在の筋電計の原型となる装置を発表している。(図2)これには差動アンプ、オシロスコープ、スピーカーが使われており、筋電波形をカメラで撮影ができるようになっている。また、この頃テープレコーダーを内蔵した装置もあり、一度観察した波形を後から何度でも再現できるようになっていた。

図3:昭和25年ころ東京大学整形外科で
使われていた筋電計
一方日本での筋電計開発はというと、昭和27年(1952年)に発行されている“筋電図の臨床”という本の中に東京大学での研究が紹介されており、その中で東京電気精機という会社で製作された筋電計が記載されている。(図3)第1回筋電図研究会(後に筋電図学会)が昭和23年に行われているので、日本における筋電図の歴史はこの数年前からと考えられる。本格的に商業ベースで筋電計が発売されたのは、昭和29年(1954年)で三栄測器がMG-101(図4)を、日本光電は2現象残光性オシロスコープMVC-2Aと生体アンプを組み合わせて販売した。その後10年間はアンプ、刺激装置、オシロスコープ、スピーカー、それにカメラまたは連続撮影装置を組み合わせたシステムが主流となり、その間日本光電はオシロスコープVCシリーズを次々に発売し、日本における基礎神経生理の研究に大きく貢献している。その当時の代表的なシステムを図5に示す。
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図4:日本で最初に市販された筋電計
左 MG-101(昭和29年 三栄測器)
右 UB-204 テープレコーダ付
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図5:VC-7と組み合わせた筋電計
(日本光電)
昭和34年ころには筋電計の規格が検討されはじめ、委員会が発足していた。それによると
- 応答の直線性としては120mm以上のブラウン管の使用を原則とし、輝点の上下の振れが基線から夫夫50mm迄は10%以内の誤差で入力電圧に比例すること。2ビームブラウン管の時には上下40mm迄同上直線性が得られること。
- 増幅度を最大に調整したときの感度は0.5mm/μV以上であること。
- 10-1500c/sの周波数範囲内に於ける特性は±10%以内で平坦であって1500c/s以上に於いても特性が120%を超えないこと。
- 30ミリ秒の時定数を標準とし、10ミリ秒及び3ミリ秒に切換え得ること。
- 入力端子を短絡した時、平均1秒に1回以上10μVより大きいノイズが発生しないこと。
などが検討されていた。
また、ハムフィルターの備わっている装置であっても、波計診断する場合はその使用を禁じている。当時波計記録する方法は、写真撮影法と電磁オシログラフ記録法があったが、やはり正確な記録を残すためには写真法を提唱している。(図6)そのころブラウン管のスポットを縦にだけ振らせて、撮影機のフィルムを流して連続撮影する装置も販売されていた。(図7)
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図6:写真記録法
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図7:連続撮影装置
昭和40年代になると2チャンネルの生体アンプを内蔵した一体型の筋電計が発売されたが、記録はまだ写真方式であった。この当時は日本光電、三栄測器、平和電子が筋電計を販売していた。(図8) 後に電磁オシログラフは光源に高圧水銀灯を使いその紫外線で感光紙に照射し、高い周波数まで記録できしかも現像が不要な記録器として開発が進んでいた。(図9)
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図8:昭和40年代に発売された国産筋電計
左:日本光電MM-22 中:三栄測器 131 右:平和電子 HM-305A
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図9:昭和40年代の電磁オシログラフ
海外では、特にヨーロッパで本格的な筋電計の開発が行われDISA社はコペンハーゲン大学のブクタール教授と1950年(昭和25年)に筋電計の開発をスタートした。その後Medelec社が1966年(昭和41年)にファイバーオプティックレコーダーを搭載した筋電計を発売し、それまで最大の問題であった記録の問題を克服した。ファイバーオプティックレコーダーは現像を必要とせず、しかも紙を前進させながら、横方向に記録するいわゆるラスター記録を採用したために記録紙が少量ですみ、しかも記録が見えるまでの時間も短縮された。しばらくして加算ユニットが筋電計に組み込まれるようになり、SEPなどの誘発電位検査が筋電計でもできるようになった。また、DISA社は1976年(昭和51年)に完全デジタル式としてDISA1500を発売し、この頃世界の筋電図市場はMedelec社とDISA社が牛耳っていた時代である。
米国Nicolet社は1985年(昭和60年)にDISAの筋電計開発に関与したJudex社と組んでVikingを開発し、この筋電計が瞬く間に全米に広がり日本でも発売されるようになった。 欧米における筋電計開発の変遷を見ると、1950年―1973年はアナログ時代、1973年―1982年はトランジスタを中心としたデジタル時代、 1982年―1993年はマイクロプロセッサ時代、1993年からPC時代というように、電子技術の発展に伴って進歩してきている。 日本に欧米の筋電計が進出したのは昭和50年初期からでMedelec社とDISA社がほぼ同時期に発売を開始した。(図10) 中でもMedelec社のMS6という機種は、ファイバーオプティックレコーダー搭載と使いやすさから多くの台数が国内に導入された。その後20年以上筋電計市場は Medelec社、Dantec社(旧DISA)、Nicolet社に完全に押さえられ国産品は陰を潜めていた。また、販売台数は少ないがアメリカの Cadwell社の筋電計も販売されていた。(図11)
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図10:日本市場に上陸した本格的な筋電計
左:DISA 1500 型 右:Medelec MS-6型
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図11:マイクロプロセッサ時代の筋電計
左:Nicolet Viking 中:Medelec MS92 右:Cadwell CA5200
その後、筋電計はPC時代を向かえ、神経伝導検査に於ける潜時や電位の自動計測、針筋電図の波形を定量的に解析する試みがウプサラ大学のストロベルグ教授らによって進められ、それらのプログラムは現在市販されている筋電計に取り入れられている。 2000年を過ぎると、世界的な医療業界の再編の影響からMedelec社はOxford社に、さらにそのOxford社はNicolet社に、その Nicolet社はViasys社にと買収されていった。現在Viasys社はCardinal Health社の傘下となっている。しかし市場に浸透しているMedelecやNicoletのブランド名は健在で、それらはミユキ技研が日本で販売を行っている。Dantec社も同様の道を辿ったが、現在はDantec Dynamics社としてヨーロッパを中心に販売を行っている。しかし日本光電は確実な経営の元に世界的な戦略を行い、さらに世界市場での競合にもまれながら性能も向上し、今では国内だけでなく世界中で大きなシェアーを占めている。現在日本で販売されている筋電計を図12に示す。
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図12:現在の筋電計 左:日本光電 ニューロパック
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右:Nicolet VikingSelect

図13:最初の医用コンピュータ CAT
誘発電位の歴史は1947年(昭和22年)にドーソンが重ね合わせ法を開発し、さらに1954年(昭和29年)に加算装置を開発してから急激に発展した。そしてアメリカでは1955年(昭和30年)ころCAT(Computer of Average Transients)と呼ばれるデジタル方式の誘発電位加算や神経インパルスのヒストグラム、相関分析用に医用計算機が開発され研究や臨床の場で使われ始めていた。(図13)このCATは昭和38年(1963年)に日本光電によって日本でも販売された。CATは3インチブラウン管を備え、記憶装置は 8,000個のドーナッツ型のコアを用いており、CPUはトランジスタ(ゲルマニュームトランジスタ)とダイオードを組み合わせたもので、当時デジタル方式の加算装置としては世界初であり、今日のコンピュータ時代の幕開け的な装置である。

図14:アナログ式の加算装置
(昭和38年三栄測器)
日本で誘発電位計として販売が開始されたのは昭和38年で、アナログ方式の加算装置として三栄測器がARC、日本光電からはATCとして発売された。しかしアナログ方式のために精度が悪く、雑音も多くダイナミックレンジによる飽和の問題などがあり普及はしなかった。(図14)

図15:CATを参考にして作られた医用コンピュータ
左 ATAC401 日本光電
右 MC401 三栄測器
昭和40年(1965年)アメリカのCATを真似て日本光電がATAC401を、翌年には三栄測器がMC-401を発表した。 日本光電や三栄測器はこれらの装置を製作するにあたり中枢部分であるCPUから作らねばならない状況であった。 しかし、当時はトランジスタが出回ったばかりで、不良品も多く性能の良いトランジスタを選ぶのに苦労したようである。 この頃は医用コンピュータという名称で脳波や神経インパルスを解析する目的でこれらの装置を用いた研究がはじまり、 基礎生理学、精神科、脳外科などで使用が開始されていた。(図15)
この間、日本光電はATAC500シリーズ、ATAC2100シリーズと本格的な医用コンピュータを次々と販売し、日本における神経生理のコンピュータ解析時代を築いた。しかし、その後のソフト時代への対応が上手くいかず、その後は三栄測器のシグナルプロセッサにバトンを受け渡すことになった。三栄測器はシグナルプロセッサシリーズとして7Sシリーズ、7Tシリーズ 、DPシリーズを開発し、特に7T07,7T08ではビットスライサを用いてCPUを構成し、当時画期的であったプログラムの読み込みをカーステレオのテープ再生を利用したテープ方式を開発し、プログラムのコンピュータへの読み込みを簡略化した。また、ソフト開発部隊を社内に設け、ユーザーごとに少しずつ違う要望に充分な対応を図ると共に、テープ方式によるプログラムのインストールもユーザーが簡単に行うことができた為に多くの施設に普及した。(図16)一方、昭和48年ころから加算専用機の要望が多くなり、日本光電はATAC250を三栄測器は7S06を加算専用器として発売した。(図17)
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図16:多くの施設で使われたシグナルプロセッサ
7T08(三栄測器)
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図17:加算専用機の初期モデル
左 ATAC250 日本光電
右 7S06 三栄測器
誘発電位が臨床の中で急速に発展したのはABRの発見からであるが、日本では昭和54年(1979年)に日本光電からMES-3102が、翌年三栄測器から7S11が発売されてからである。(図18)
この頃ABRはERA(Electric Response Audiometry)と呼ばれ、耳鼻科を中心に研究会が発足し蝸電図検査と共に国内に浸透した。 この時期から誘発電位計は高性能な生体アンプ、加算装置、刺激装置(電気刺激、音刺激、視覚刺激)、記録器が一体となり、これ一台で全ての誘発電位の検査が行えるようになってきた。
その後ABR、SEP、VEPが診療報酬で点数化され、臨床の中で盛んに誘発電位検査が行われるようになった。 このころの代表的な装置は日本光電のニューロパック、NEC三栄のサイナックスで、モデルチェンジを繰り返しながら機能アップされていった。(図19)
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図18:初の誘発電位専用機
左 MES-3102 日本光電 右 7S11 三栄測器
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図19:誘発電位の最盛期に活躍した
ニューロパックとサイナックス
左 ニューロパック MEB4208 日本光電
右 サイナックス ER1100 三栄測器
昭和57年から約10年間は誘発電位の研究や臨床応用が最も盛んな時期であった。この時期は海外からNicolet社やCadwell社も参入し、各社が競って販売展開を図っていた。この当時ニューロパックやサイナックスは筋電計としては海外のメーカーに追い付けなかったが、誘発電位計としては、オートマーキング機能や自動測定機能などの使いやすい機能と価格面で海外品より優位で販売台数も多かった。また1985年(昭和60年)ころにはNicolet社から16チャンネルの誘発電位加算やマッピング機能を備えたパスファインダーという装置が発売され(図20)、誘発電位の多チャンネル測定が行われるようになってきた。これに追従して日本光電はATAC450をNEC三栄は7T18,DP1200でマッピングプログラムを開発し、誘発電位のマッピング表示を行えるようにしていた。(図21)しかし、誘発電位の多チャンネル記録はあまり臨床的な利用価値がなく、その後、事象関連電位の研究分野で利用される以外はマッピング表示は利用されなくなった。
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図20:多チャンネル誘発解析装置として
日本市場に登場したニコレーのパスファインダー
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図21:多チャンネル脳波・誘発電位解析装置
左 シグナルプロセサ 7T18 日本電気三栄
右 シグナルプロセサ DP1200 日本電気三栄
今日、全ての筋電計や誘発電位計はコンピュータで構成され、プログラムによって用途が分かれるようになりそれぞれの専用機は無くなった。そして、国内で生産される装置は日本光電のニューロパックだけになったが、その性能と操作性は海外品に勝っており多くの施設で使われている。現在国内で販売されている誘発電位向けの装置を図22に示す。 一方、検査としての誘発電位はその手技も基準化され、臨床応用も定着し一時のブームは去った感があるが、脳外科や整形外科で行う脳や脊髄の手術に際して、神経や脳機能を温存する為の神経機能モニタリングが盛んになりつつある。この分野への応用プログラムを開発したのは日本が最初である。1985年(昭和 60年)脊髄誘発電位のトレンドモニタープログラムは、当時千葉大学整形外科の玉置哲也助教授の指導により、またABRとSEPなどを組み合わせたマルチトレンドプログラムは、当時東京大学救急部の佐々木勝、有賀徹先生の指導の下にNEC三栄がプログラムとしてライナップしている。現在は海外製品にも神経モニタープログラムが組み込まれており、手術中の誘発電位の波形と数値結果をトレンドで表示できるようになっている。(図23)ミユキ技研で販売する、米国Axson Systems社の神経機能モニター専用機(エポックXP)はこの市場に特化した製品で整形外科、脳外科を中心に売り上げを伸ばしている。
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図22:最近の誘発電位計
左 ニューロパック 日本光電
右 シナジー ミユキ技研
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図23:神経機能モニター
左 エポックXP ミユキ技研
右 ニューロマスター 日本光電
筋電図や誘発電位検査は感覚神経や運動神経機能を知る唯一の方法として日常診療で利用されており、画像診断機器が病気診断の主役の時代であっても、重要な検査として行われている。これらの検査は80年の歴史があり、特に電子機器とコンピュータ技術の進歩が 装置と検査法の発展を担ってきた。しかし、市場規模は大きくなく現在では業界再編の影響を受けて先人達の会社が消えつつあるが、それでもこれらの検査装置はなくなることはない。日本でも当初はいくつかの会社が参入を計ったが、現在では日本光電のみが生産を行っているにすぎない。誘発電位はヒトの神経機能、特に高次脳神経機能を研究する装置としてまだまだ性能が向上するであろうし、臨床面では手術中の神経機能モニターとして臨床応用が進むと考えられる。本稿を書くにあたり貴重な資料や写真は土屋和彦氏、石井昭浩氏、柳原一照氏から提供いただいた。また、司東丕現氏と笹森壮一郎氏からは当時の貴重なお話を伺った。紙面を借りて感謝申しあげます。
- 日本光電㈱:電子技術で病魔に挑戦(日本光電40年の歩み);1993年
- 日本光電㈱:電子技術で病魔に挑戦(日本光電50年の歩み);2003年
- 日本電気三栄㈱:40周年記念社史;1988年
- 白澤 厚:臨床神経生理検査の実際(松浦雅人編)、新興医学出版、30-38; 2007年
- 時実利彦 津山直一:筋電図の臨床、共同医書;1952年
- Jorn Ladegaard; Story of EMG Equipment ; Muscle & Nerve, Supplement 11; 2002年
- 宇川義一:神経、筋生理機能検査機器、臨床検査とME、コロナ社、73-95、1986年
- 久保田博南 電気システムとしての人体 講談社;2001年
- 杉 晴夫 生体電気信号とはなにか 講談社;2006年
- ロバートガランボス(菊池/南谷訳) 神経と筋肉 河出書房新社;1972年